ちょっとだけ変える

ちょっとだけ変えてみる。

 

現状を打破する為にはちょっとだけ変えてみると上手くいく事がある。

・自分を変えたい

 

そう思うとどうしても自然に自己否定し、『もう一度やり直したい』や『死にたい』なんて思ってしまうこともある。

 

但し、そこまで大幅な変更を試みようと思うと、なかなかうまく行かず、かえってストレスが増えるばかり。

 

小学生の理科の実感で、水素に酸素をたすと水H2Oになることを学んだと思う。

 

自分という元素があっとして、全てを変えようと思ったらとてつもない作業がひつようとなる。 しかし自分という元素を生かして、少しだけ違ったもの価値観を取り入れるだけで、H2Oのように違った物へ変化する。

 

このことは、自分を否定して違った自分を目指すという困難な道よりも歩み易い道である。 今の自分を生かしてそこに新しいエッセンスをプラスすれば良いのです。

 

チャーハンを作って『少し味が足りないな』と思ったら、一つまみ塩を入れるだけで大分味が変わる。 これと一緒である。

 

全部を変えようとしないで、ちょっとだけ変えてみるだけで実はより大きく得るものがある事に気付くはずです。

そして継続すること。 継続は力です。

 

突然!

群馬からの仕事の帰り。

高速道路を走っていたら。

突然、ハンドルを握っている手・腕の感覚がなくなり始め、アクセルを踏んでいる足の感覚、身体の感覚がなくなり始めました。

 

『ん、なんだ?』

『おかしい』

 

私は、物凄い違和感を感じながら帰路をいそぎました。

でもその違和感はどんどん進行し、やがて頭の意識以外の全ての感覚が無くなりました。

『このまま走ったら事故る。 やばい!』

 

そしていそいでハザードに手を伸ばし、高速道路の路肩に停止しまいた。 その時点では、私の意識以外の感覚が無くなっていました。

 

『一体どうしたんだ』

 

ハンドルを握っている感覚がないという違和感、そして恐怖。 私は自分を落ち着かせる為に深呼吸をしました。

路肩にしばらく車を止めていたら、少しだけ身体の感覚が戻ってきました。  いけるか? しばらく手足の感覚を確認するように動かしました。

『なんとかなるか』

 

救急車を呼ぶことも考えましたが、恐るおそる車をスタートしました。

まだ完全な状態ではなく、感覚が鈍い。 頭は起きているけど、身体は熟睡しているような感覚。 アクセルを踏んでいる感覚も鈍いのでスピードメーターをチェックしながら低速車線を走行。

 

やっと料金所が見えてきた。 細心の注意をはらい減速。 なんとか自分の意思通りに身体は動いているようだった。 但し、やはり違和感はそのままだった。

 

高速を降り、交番の前に差し掛かったとき。

『交番の人に話したほうがよいかな』と思ったが、『なんていったらいいのだろう』と・・・。

 

そのまま会社を目指しました。

何とか無事に会社まで戻れて良かった。 時間は21時すぎ。

 

『過労かな』

『12月から続いている頭痛か、それとも最近発生した背中の痛みか』

 

色々頭の中を駆け巡る。

そして仕事を片付け、家路につく。 通勤は片道6キロの道のりを自転車。 ペダルを踏む感じはOK。

『なんとか感覚が戻ってきたな』

 

そしていつもの帰り道の神社の前で、自転車のチェーンが外れる。 いつも通り、鳥居はくぐらずに道端から『有難う御座います』とだけ。

 

『ここでチェーンが外れる言うことは、身体のメンテナンスをしなさいと言うことか』

 

そして無事に家に帰れました。

 

身体の感覚が無くなる。 まるで幽体離脱のような体験。 でも高速を走行中に起きたのは正直恐怖でした。 自分の頭以外の身体が無い感覚。

今度、時間が出来たら病院に行こうと思います。

神様も『メンテナンスをしなさい』と言っているようです。

 

でも突然の出来事でしたが、守られている事を再認識するいいきっかけでした。 自分でも感覚がないのによく、高速道路で安全に路肩に車を停止できたと思います。 正直、本当に怖かった。

散り行く

東京の桜もだんだんと、鮮やかなピンク色から葉が散りはじめています。

 

長い間の季節いまかいまかと待ち続け、この春に鮮やかに彩る。

そしてまた普段へと帰っていく。

 

桜は自分が咲くときをしり、散り行くときをしっている。

 

人も同じ。

自分の命は永遠ではない。

人はこの世に生を受けたら死に向かって生きている。 死とは早いか遅いかの違いでしかない。

みんなに平等に与えられている。

 

自分の人生でいつ咲き彩るのか。

それは自分の努力しだいである。

 

一生懸命寒い冬を耐え忍び、そして光り輝く。

そしてまた次の春を待ち、長い努力の日々を続ける。

 

永遠に続くこの命の連鎖を、ただ進むのである。

 

私たちの肉体には限りがある。 但し、私たちの魂は永遠である。

いまこの地上で一生懸命に、生きていればそれで良いのではないだろうか。

そして魂の経験に刻まれ、光り輝く原動力になるだろう。

突然に

うちのガキンチョが突然。

『地震の映像が観たい』

と。

『何を突然』

私は思いました。

東日本大震災の時、ガキンチョは生後4ヶ月。

記憶の認識の範疇に無いはずなのに、突然何をいいだすのか。 少し考えました。

東日本大震災の映像は、精神的なショックも大きい。 大人の私が観てもPTSDになるかと思うほどダメージが大きい。

ましてやいま3歳の子供に見せて良いものだろうか・・・。

しばらく考えた後。

『観たいと言うなら仕方が無いけど、嫌だったらすぐに止めるからね』

と言って、ユーチューブで『東日本大震災』と検索した。

検索ページには、とても言葉につまるようなINDEXが並ぶ。

私は躊躇する。

『本当に観たいの?』

『うん、観たい』

『そうか』

でもなぜ突然に『地震の映像が観たい』と言ったのか。 先日のチリ地震の影響なのか。 謎は深まる。

 

一度観た映像を『もう一度観たい』となんども何度もみた。

ガキンチョは、涙を浮かべながら何度も観た。 自分の心に刻み込むかのように何度も何度も。

私の心もあの時の記憶がよみがえる。

 

とても不思議だ当時4ヶ月だったガキンチョがいま何故突然に・・・。

 

【下の画像はうちのガキンチョが何度も観たいと言った画像ですが、観たくない人は見ないでください。】
http://youtu.be/L75hoO-v9hc
インターネットが普及したいま、こういった画像を次世代に引き継げて行くのは、とても大切な事なのかも知れません。

そして経験していない世代が少しでも色々考えてくれればと思います。

 

2060年 人口

2060年の人口が最近何故か気になる。

 

ちょっと調べてみたら、2060年には今のままのペースで行くと人口は、約8600万人になるということ。

 

平成25年10月現在の日本の人口が、約1億2000万人。

約50年後には、8600万人。

約3400万人の人口が減少すると予想されています。

 

ちなみに50年前の1960年前の人口は9300万人。

 

明らかにピークを過ぎ下降線を辿っているように感じる。

国が少子化対策に手を打たなければ、この予想の通りになってしまうだろう。

 

人口が減れば、内需がもちろん低迷するだろう。 不動産価格も下落するだろうか。 逆に50年後の人々にとって土地は今よりも買いやすい状態になるのだろうか。

 

仮に今のような住宅事情が進んでいけば、賃貸マンション等は、空室が目立つようになっているだろう。  なんといっても人口が減るのだから。

 

現在、東京の人口が1300万人、東北6県の人口が900万人、近畿地方が2200万人。

 

と言うことは、東京と近畿地方の人をたすと3500万人。 単純に考えて東京と近畿地方の人が50年後にいなくなると言う事。

 

もしくは東北と近畿地方の人(3100万人)がいなくなると言う事。

 

50年後には、結構日本はスカスカになってしまうのかも知れない。 あくまでも予想の域ですが。

 

もちろん今の年金制度も人口減少によって維持できなくなるだろう。

遠い未来のようであっても、50年なんてあっという間に訪れる。

人口が減るのに、今のままの公共投資による道路の増設などは意味があるのだろうか?

人口が減るのに、原発が恒久的に必要なのか? (人口が減るのであれば、再生可能エネルギーに今の段階からシフトして行った方がいいのではないか)

 

今のまま共働きが増え、少子化が進んでいけば2060年は現実にやってくる可能性がある。

 

今生きている人々が思いをめぐらせ、50年後を考えていけばもっと違う未来を作れると思う。

 

なんだか最近とても2060年が気になる。

 

参考

内閣府 高齢社会白書

http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2013/zenbun/s1_1_1_02.html