物事にはタイミングがある

物事にはタイミングがあります。

自分の中で受け入れる態勢が整ったときが受け入れ時期です。
受け入れ態勢が整っていなければ、なにもなく通過していきます。
私も良く本であります。
書店に行って平積みになっている時は、まったく気にも留めなかった本が、数年後に書店にいって出会い 『そういえば、この本数年前に平積みなっていたなぁ』と手にとってみたら、そこには今必要な情報が載っていたなんてことはしょっちゅうです。
もし平積みになっているときに、その本を購入していたら『読まない本コーナー』に行っていた事は間違いないでしょう。
でも今だから、その本に書いてあることが理解できる。
そんな事が多くあります。
物事にはタイミングがあります。
一番身近なのは、カップラーメン。
お湯をいれて数分待つ。
固い麺がすきな人は、一分で蓋をあける。 私は、指定されている時間マイナス一分派。
中には、指定されている時間通りの人、はてまて、指定時間よりオーバーな人。
様々な価値観がそこにはあります。
そしてタイミングがあります。
全ての物事には、タイミングがあるのです。

幸福が先

幸福が先。

日夜生活をしていると、目をしかめたくなる現象や出来事に出会うときがある。
眉間にしわをよせ、怒りや失望にまかせた表情をしてしまう。
それでは幸せは逃げていってしまう。
なぜなら、自分が意図せずとも、その瞬間に負のパワーが炸裂しているからだ。
人は、自分が発する性質の物を引き寄せる力を持っている。
何を引き寄せたかは、もうお解りであろう。
同じ過ちを繰り返さないために一つだけ伝えよう。
『幸福が先』
なのだ。
幸福が先と言う事は、自分が先に発する幸福パワーを発揮すると言う事だ。
いまそのままでも幸福だと言うことに気付く事だ。
足元を見てみよう。 
そして目線をあげてみよう。
生きているではないか!
それだけで十分に幸福だ。
自分が幸福であると言う事は、疑う余地もない。 それは生きているからだ。
そしてその幸福に感謝し、幸福パワーを発揮すれば、更に幸福になるだろう。
悲しみや苦しみは、幸福パワーの前では無力である。
もう入る余地はない。
幸福パワーの前では、今までの出来事が違った角度、意味にみれるようになる。
感謝して出来事を受け入れられるようになる。
幸福が先。

思いやりを持つ

思いやり。

この言葉を聴くと、他人に対しての行為に感じるが、実は自分に対しても思いやりを持って接する必要がある。
自分を決して粗末に扱ってはいけない。
自分を粗末に扱うと言う事は、自分の顔に泥を塗るのと一緒の事。
自分を大事に思いやりを持って接する事が大事である。
もちろん他人に対しても思いやりを持って接する必要がある。
必要があると言うと強制に聞こえるが、強制ではなく必然的にそうしなくてはいけない。
何事にも思いやりを持つ。
それが愛に繋がっていくのです。
愛をもって人に接すれば、その愛はやがてまた自分に返ってくる。
もちろん自分に接するときも愛を持って接すれば、自分もそれに答えてくれる。
私たちは、肉体という物質は認識できるが、精神と言う物を実際に形で見ることは出来ない。
脳の中の信号の働きではない、この精神は何処にあるのか。
その何処にあるか解らない精神を、上手に導いてあげるのが思いやりであり、愛である。
インターネットは世界的にいま繋がっている。
日本にいて地球の裏側にも繋がることが出来る。
これと同じで精神も全てと繋がっている。 この世の中に悪い意思が蔓延(はびこ)れば、それが大きなうねりともなる。
私たち一人ひとりの心がけが、実は自分の周りの世界とつながり影響を及ぼしている。
だからなお更、思いやりは大事にして欲しい。
ひとりの人間として、ひとりの個人として、他人や世界と繋がる場合、思いやりの心を大事にして欲しい。
そして自分と接するときも思いやりの心を忘れないで欲しい。
自分を大事に、そして暖かなパワーを発して欲しい。
思いやりの心を持つ。

この世は中立

まず始めに、先日の日記へのコメントを下さった方、記事を読んでくださった方へ、この場をお借りしましてお礼申し上げます。

『有難う御座います』
さて、それでは通常モードへ変更と言うことで、今日のテーマは『この世は中立』
私たちの身の回りにあるもの、世界は全て中立の立場にあります。
物事に良い悪いはなく、全ては己で判断しているに過ぎません。
例えば、失恋。
実際、失恋するとそれが『悪い事』だと思ってしまい、絶望の淵に落ちることがあります。
私も何度と無く落ちました。
それは私が失恋と言う出来事を勝手に『悪い事』と判断した結果に過ぎません。
失恋自体は、良い悪いはなく中立です。
ただ自分がそう判断したに過ぎません。
失恋に対しては、それが良いことと判断できる人は中々いないと思いますが、失恋を良いことと解釈してもなんらバチはあたりません。
自分がどう判断するかだけです。
このように、身の回りで起きる出来事全てが実は中立であり、それに彩りを与えているのはほかならぬ、自分でしかないのです。
だから自分で受け取り方を工夫すれば、今までと同じ出来事を違った意味合いに変える事が出来るのです。
全ては自分の心の持ちようと、考え方。
それで自分が感じているこの世の中が作られています。
同じ時間、同じ環境にいても人それぞれの世の中が違うのはこのためです。
同じ仕事をしていても『楽しい』と思っている人と『最悪』と思っている人がいます。
その違いは、己の考え方の違いでしかないのです。
ただいえる事は、楽しいと思ってやっている人はどんどん楽しくなり、最悪だと思ってやっている人は、どんどんつまらなくなっていきます。
これは、自分が見ているほうへ進むという法則があるためです。
自分が思っている事が現実になる。
これはどんなことでもそうです。
楽しいを選ぶか、最悪を選ぶか、そしてそれらを引き寄せるかは、自分次第なのです。

ブログはこれで良いのかどうなのか。

2004年からホームページの運営と並行して書いてきたブログが、最近これで良いのかと考え中です。

事の発端は、何かというと実は何も無く。
ただずぅーっと書いてきたので、何となく習慣的に書いていますが、いつも何となく『これでいいのかなぁ~』と考えている訳です。
最初の頃は、日常の出来事を書いていました。
その後は、色々な事を書いてきて、ここ最近では、心の中にある哲学のようなものを文字にしています。
本人は、ただ習慣的に書いているのですが、正直『こんなの読む人いるのかなぁ~』と思うときもあります。
ただ、元々あまり文章を書くことが苦手なので、こうやって文字にすると文章を書く練習になって良いかなとは思います。
それと、最近はネットを見る人が増え、新聞や本を読む人が減った事により、文字離れが進んで長文より、短文が好まれる傾向にあるようですが、そういったものを研究するのにも、ブログを書くことは良いのかなって思います。
たまにコメントを頂けるという、ビックなプレゼントも皆様から頂けるのでやっぱり書くのは良いことなのかなぁ~と思います。
『石の上にも三年』
『ブログを書き続けて8年』
何らかの効果はあったのかな。
今後も試行錯誤しながら、ブログは書いていきたいと思います。
メインのホームページの方は、引き続き『元気のエクササイズ』編を作っていきたいと思います。
今は第4編まで次で折り返し地点。
時間を見つけながら作って、早く完成させたいと思います。
『万人の役に立たなくても、一人の役に立てば良い』
私のモットーにそっていきたいと思います。
でも本当は、いっぱいの人の役に立てれば嬉しいです(^^)
でわでわ