自分の論理とルール

自分の論理とルールには時々相違点が発生する。

 

先日見かけた光景。

 

おじいちゃんが自転車で左側通行をしていた。

おばさんが右側通行で自転車で走ってきた。

そこは狭い道だった。 車も沢山いた。

おじいちゃんとおばさんは、鉢合わせになった。

 

おじいちゃんは

『自転車は左側通行だぞ!!』

おばさんは

『あんたがどけばいいのよ!!』

ちょっとした小競り合いだ。

 

おじいちゃんの論理は

『左側通行をして自転車をのっている俺が正しい』と思っているのだろう。

おばさんの論理は

『道路はみんなのものどっちを走ろうがあたしの勝手でしょ』

 

そういった所だろう。

おじいさんは『交通ルール』にしたがって正しい通行をしている。

おばさんは『交通ルールを無視』して自分のルールで通行を行っている。

 

普通であれば、おばさんに良心の呵責がありおじいさんに道を譲る行為が必要だ。 だが小競り合いになった。

おじいさんも『正当な事をしているのに噛み付かれた』ので、むきになって反撃する。

 

あまりいいものではない。 絶対的に足りない価値観があるそれは『ゆずりあいの心』だ。 譲り合いの心があれば小競り合いにならないで済んだはずだ。

 

よく言うことがある。

それは『自分の常識は非常識だ』ということだ。 自分が普通だと思っていることそれが非常識な事もある。 常に固定概念を持たずルールに従っていたとしても、その中からベストな選択を心がけなくてはいけない。 それが人と人の関係では重要だ。

 

いまエジプトではそれぞれの論理が衝突し、多くの尊い命がなくなっている。 そもそも戦争は論理のぶつかりあいである。

日本も韓国や中国の論理で攻撃されている。 もちろん日本の論理があり立場もある。 これが過剰になると戦争を招きかねない。

 

まずはお互いがルールを守った上で、論理を選択する必要がある。 そしてまたお互いが主張することを理解をしそのうえで解決策を模索しなければならない。

 

無用な争いは、憎しみや悲しみ憤りや怒りしかうまない。 論理を政治の道具にしてはいけない。 ナチスドイツは、ヒトラーを筆頭とする論理で世界を恐怖に陥れた。

 

ルールを守らない身勝手な論理は争いの元になる。

国の問題もそうだが、まずは一人ひとりがしっかりと『自分の常識は非常識』という立場に立ち返り、良い行動・選択を心がけていけばよい未来が広がっていくでしょう。

 

自分の論理とルールを再点検する時期なのかもしれませんね。

 

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